今朝の思い・・・

胡蝶書坊で販売している本はどこでも買える。インターネットがこれだけ発達して、アメリカ、イギリスはもちろん、ドイツ語圏、北欧諸国、チェコ、など海外主要国の古書の情報は多少の外国語の煩わしさをいとわないならば、誰でも入手できる。その煩わしい外国語もGoogleなどで一応の翻訳はできる。(現状では英語以外の言語の翻訳は非常にあやしいけど、これも時間の問題だと思う。)クレジットカードさえあれば誰でも買えるし、実際、僕自身もそうして入手しているのだ。各国の古書店ポータルサイトをあたり、その古書店に直接連絡して、ディスカウントができるかいなかを確認し、送料を確認し、(同じ店から何度か仕入れていると、お店によっては、向こうからこちらの欲しがりそうな新着本の情報をくれるようになります。)・・・これは日本で新刊の和書を扱うよりずっと簡単な作業だ。


 それでもなおかつ僕の本屋が存在していく意義はあるのだろうか?存在していく意義があるためにはどういう本屋にならないといけないだろうか?常にそれを考える。自分のやっていることは誰でもできることであるんだ、ということをしっかり認識して、それでも、お客様に喜んでもらえるためには、何をしていくべきなのか?


 ものの作り手ではない以上、「ユニーク」であることなんてありえない。一時的に「ユニーク」たりえる瞬間はあるのだけど、それはこれだけ情報が瞬時にかけめぐる現代においては一時的な幻でしかない。かつては「ユニーク」になろうとして、「ユニーク」であるためにはどうすべきかを色々と考えてもみたけれど、「ユニーク」たりえないことがはっきりと見えて来た。


 「商い」ってこういうことだと思うのだ。この世の全ての情報がオープンになった状態で、お客様が「がっかり」するか、「買って良かった」と思ってもらえるか。たとえば、あとでAmazonで見たら、少し安かった、それでも「買って良かった」と思ってもらえるか、「なーんだ、じゃあ、今度からAmazonで買えばいいや。」あるいは「胡蝶書坊で欲しい本が見つかったら、まずGoogleで検索して、もっと安いところ見つけて、どこかの書店で買えばいいじゃん。」になるのか。


 多分、いつまでもネットだけじゃ駄目なんだ。ものに触れる場がないと。


 昨日、筒井先生がコーディネイトされた「恵文社Xガケ書房対談」を拝見して、そんなことを考えた。いや、いままでもずっと考えていたのだが・・・


 対談の模様はこちらから・・・ http://d.hatena.ne.jp/ytsutsui/20100124