覗く、ということ

遅きに失した感もあるのだけど昨年、ちょうど一年前、ニューヨークで開かれた吉行耕平の写真展の図録を入れてみることにした。1980年、せぶん社より「ドキュメント公園」という書名で発表された写真を含むいわば「覗き」の写真展。夜の公園で「コトに及ぶ」男女とそれを覗く男たち、それから相手を求める男たちが被写体になっている。ほぼ30年ぶりに開かれたこの日本の写真家の個展について、日本ではほとんど話題になることはなかったようだ。


「悪趣味」という一言で片付けようとすることもできるのだけど、でも、「覗く」というのは実に人間的な行為ではないだろうか、とふと思う。
そういえばかの「失われた時を求めて」でも「私」は「覗き」の常習犯だ。異様に不自然な設定をしてまで覗く場面が執拗に描かれる。
最初はモンジューヴァンでヴァントイユ嬢とその女友達のささやかなサディズムの現場を、やがてパリのゲルマントの館でシャルリュス氏とジュピアンの出会いとその後すぐさま始まる行為を、さらには戦時下のパリのとあるホテルで男娼にむち打たれるシャルリュス氏を。


ページを繰るごとに読者は「私」とともにスリリングな「覗き」の共犯者になっていく。もしこれらの場面が「私が覗いている」かたちをとっていなければどれほど精彩に欠いたものになっていただろう。


風通しを良くしようと階段の踊り場に面した僕の部屋のドアを開けておくと、降りて来る三階の住人はやっぱりついつい覗いてしまうようだ。そのたびににっこり笑い合い、挨拶代わりになっている。僕もその瞬間に何となく期待をしている。こういう覗きは歓迎だ。この踊り場は最近赤ちゃんができた猫の一家の通り道にもなっているのだけど、今ほど彼らはただただだまって通り過ぎていった。子猫もだいぶ大きくなっていた。こらっ、猫!人の家の前を通っておいて、挨拶ぐらいしろよ!今日は雨の台北、踊り場に濡れた猫の足跡が残る。


吉行耕平の写真集、"The Park"(Hatje Cantz)は来週入荷の予定です。