完熟トマトを買いに出た朝

太宰治生誕百年よりも永井荷風没後50年のほうが身近に感じられる今日このごろ、まずは早起きをして机に向かう。一段落したところで、出勤前の人たちがそろそろ退散したであろうモスバーガーで朝食をとり、「今日は完熟トマトのスパゲティが食べたい」、と新緑の鮮やかな公園を横切り、いつもの朝市へ向かいました。
(これが古書市だったら、カッコいいのですが・・・)


外が真っ赤でもスパッと包丁を入れた途端、白さが目立つトマトにひっかかるとグァクっとなるので、今日はおばちゃんに「中も絶対赤いのを下さい」と無理を言う。
「うーん、これとこれは大丈夫、あっ、でもこの緑色のトマト、味はこっちの方がいいのよ、しっかりした味がする。何作るの?」というので、選ばれた4つの赤いトマトに加え、緑のトマトも一個買う。いつも通り、バジルの代わりの九層塔はつかみ放題、タダです。


夕食前、スパッと包丁を入れると、中も見事に真っ赤なトマトで嬉しくなる。おばちゃん、ありがとう。緑のトマトは強い香りが母が庭で植えていたトマトの葉をそっと揉んだ時のにおいを思い出させる。水やりが終わり、土が香り、ふくらはぎを狙って来る蚊をパチンとつぶした夏の夕方。ささいなことながら、こういう瞬間瞬間がとても大切であるように思います。ちょっとした「張り」の源になってくれます。


でも、なぜトマトなのかと言いますと、更新予告を忘れていたのですが、明日、ご紹介する本の中の一冊、スウェーデンで1950年代に発行された家庭用のポケット図鑑のイラストに描かれていたトマトが妙に美味しそうだったからなのでしょう。


特になんということはない古い小さな図鑑。きっとその原画ももはやどこにあるかはわからないようなそういうありふれた図鑑のイラストが実は非常に魅力的に感じられたりします。


日本でもう何年も続く「北欧崇拝」にあやかる訳ではないのですが(いや、そういう気持ちが100%ないか、というと嘘になります・・・)、遠い北の国の図鑑のイラストのタッチが実は日本で昭和30年代に発行されていた子供用の図鑑(たとえば、小学館のあの肌色の背の)の挿絵のそれによく似ているのは少し不思議な気持ちがします。