言葉

アルバイトで日本語を教えている。
かなりできる生徒さんで、ビジネス会話や文法を教える以外に、日本語の良い文章も読んでもらいたいと思ったので、その教材に向田邦子の「父の詫び状」を選んだ。
台湾で生活していると日本語に触れる機会は存分にある。
ケーブルテレビでは日本の番組ばかりを放送するチャンネルが二つほどあって、中国語の字幕付き。
NHKもワールドプレミアムが流れているし、本屋にいけば普通に日本の雑誌を手にすることができる。
でも、もう少し滋味のある文章を読んでもらいたいな、と思ったのだ。


向田邦子は台湾で飛行機事故で亡くなっているから、台湾にゆかりのある人なのだけど、台湾で中国語の翻訳が出たのはつい最近のことだったように思う。(今調べたら2006年だった。)
その訳本、僕は読んでいない。


少し話しはそれるが、台湾の翻訳には少し恐いところがあるように僕は感じていて、経済的効率を何よりも優先させるために大切なものが失われているきらいがあるのではないか、と危惧している。
以前に小津安二郎の「晩春」がとても安い価格でDVDで出てていたので購入、中国語の字幕を流しながら見ていて、その翻訳の粗っぽさにびっくりしてしまったことがあった。
お手伝いさんが「さいですか」という昭和の言葉で相づちを打つところ、字幕では「佐井さんですか?」と突然訳のわからない人物が登場してしまうし、茶会が始まったばかりのシーンで「おさきに」(頂きます、という意味で)との挨拶を、帰りがけの別れの挨拶として翻訳していて、今来たばかりなのに「さようなら」を言うという「訳している途中でおかしく思わないのだろうか?」と不可解な箇所がいくつかあった。
小津安二郎がこんな風に乱暴に訳されて紹介されていることがなんとも残念でメーカーに電話をしたところ、「気に入らないんだったら返品を受け付ける」という全く見当違いの答えが帰って来ただけだった。日本の松竹にも連絡をしてみたけど、特に反応はなかった。海賊版かと思ったが、立派な正規版だった。


多分、著者が生きていて海外の翻訳にうるさくて、直接翻訳者と知り合い、作品について語り合うほどの人でない限り、スピード優先、経済効率優先の翻訳はこれからも続くのではないか、と思う。
「死人に口なし」、梶井基次郎の「城のある町にて」なんぞがどのように訳されているか、一度じっくり意地悪く見てやろうと思っている。ツクツクボウシのくだり、「ハリケンハッチのオートバイ」のあたり、どうなっていることやら・・・


さて、向田邦子
日頃仕事でも日本語を使っているその生徒さん「きれいな日本語ですね。」とその文章がとても気に入ったようだった。
中国語の翻訳が出ていることを教えると、早速読んでみたようだったが、「原文で読んだ味わいが全くありませんでした。」とのことで、もしそれが彼一人の感想ではないとすれば、少し哀しい。


次は幸田文あたりを選ぼうか、と思っている。


ところでごくたまに東京に行くと「東京言葉」がうれしい時がある。
例えば歌舞伎座の裏の路地あたりの、むかしからやっていそうな定食屋さんや、そうそうシチューなんぞを出す店で、お店の人同士の会話を聞いているとリズムの良い「東京言葉」で、これを聞くと、「ああ、東京に来たんだなあ」と思う。
関東に住んだことはないので、現場に行かないと聞くことのできない言葉は耳に心地よい。
テレビが全国に広めてしまった「標準語」という無味無臭な言葉やドラマの中の主人公たちが使う、その出身地に無縁なべったりとした言葉とは違う歯切れの良さがある。


僕は生まれは関西であるけれど、子供の頃から「社宅」という全国から来た人たちが住む環境に住んでいたせいか、言葉がごちゃまぜになってしまい、自然な関西言葉をしゃべることができない。
口から出るのは、どっちかというと標準語のような、のっぺりとした言葉のような気がして、きちんと生まれたところの言葉を持っている人がうらやましくなることがある。


台湾のサイトでできれば日本文学関係の本も紹介していな、と思っています。
「見る」本だけでは少し寂しくて、やはり「読む本」が欲しいな、と。